迷子の子


アメリカで生活をすると、パーテイーというのが、生活に密着しており、社会生活を潤滑油になっていると感じることが多い。

パーテイーというと、アメリカ映画にあるような、着飾ったフォーマルなものを想像する日本人が多い。でもパーテイーには、フォーマルからセミフォーマル、カジュアル、ノンカジュアルなど、いろんな形がある。
また、100人以上の大パーテイーもあれば、ほんの数人だけが集まって、落ち着いて座って食事をするものもある。
アルコールもドラッグも、お目にかからないパーテイーというのもある。
大学生が集まって騒ぐタイプのパーテイーは、飲んで騒いで、というのが典型的かもしれないが、ごく普通のパーテイーは、飲んで盛り上がる宴会コンパとは訳が違う。
パーテイーの主役は、お酒ではない。ドラッグでもない。会話なのだ。
そこがちょっと、日本の忘年会やコンパとは、趣が違うと感じている。
車での移動が原則であるロサンゼルスでは、パーテイー会場でも、誰も無理にお酒を勧めない。
お酒を飲んでも、騒いだり、酔っぱらったりしない。大人の人間として、自分の酒量を各自コントロールして飲むのが原則だ。
パーテイーは、原則として大人の集まりであり、酔っぱらう場所ではない。
またレストランではないのだから、美味しい料理もあまり期待できない。これがアメリカ流。

私はアメリカに来た当初、パーテイーというのはあまり好きではなかった。
初対面の人と何を話していいのか不安だったし、失礼な質問をしてしまわないか、と気を使った。
でもそのうち、パーテイーでは、食事やお酒ではなく、会話を楽しむ場所であるということが理解でき、そうすると、いろんな人と出会い、話をすることが楽しくなってきた。
時々、せっかく来たパーテイーの出席者が面白くなく、来て損をした、と思うこともある。
そんな時は、ホストに簡単に礼を言って、さっさと帰る。無理して長くいる必要もない。皆に失礼になることもない。そのへんはさっぱりとしている。
そしてパーテイーの醍醐味。多くの人と出会える。異なる考え方の人、違う生き方をしている人と、交流が持てる。利害関係なくたのしくおしゃべりができる。
いろんな人と、友達になれる。

ロサンゼルス近郊の獣医師が集まるパーテイーがあり、出席した。
そこで、以前、公営のアニマルシェルターに勤務していた、という女性と出会った。
私は、シェルターメデイスンには、以前からとても興味があったので、彼女の話にみるみる魅せられてしまった。
彼女はアメリカの田舎で生まれ育ち、高校生の時からカリフォルニアに住み、獣医大を卒業した。それから、アニマルシェルターで、安楽死される不幸な犬猫のために仕事をする決心をして、市営のシェルターの主任獣医師となった。
だが、彼女は現場で遭遇するあまりにも多くの不幸な動物たちの現実を目の当たりにし、自分の無力さと、自分一人では何も解決できないというきびしい現実を知り、挫折し、現場を去ったそうだ。
今では、普通の動物病院で仕事をしている、まだ若くで優秀な獣医師である。

私自身も、安楽死される犬猫の多さを実感している。
ボランテイアや各種のイベントを含めて、不妊去勢手術のお手伝いをさせてもらうことがあるが、動物はまさしく、ねずみ算式に増える。どんなにがんばって手術しても、腰がくがく、指がごわごわになりながら、1日中、何十匹、何百匹という不妊去勢手術をしても、次のシーズンにはまた、同じ数、いや、それ以上の数増えてしまう。犬と猫の繁殖力というのは、恐ろしく、一種の恐怖と感じることさえある。
私はそれを、身をもって感じている。

ちょうど、水道の蛇口から、激しい勢いで水が流れ出るみたい。
そして、水がどんどん溜まって、洗面台に水が溜まって、水面がどんどん上がってくるような危機感。
一匹づづ不妊去勢手術をすることは、ちょうど、小さなスプーンで、そこから水をすくい捨てるようなもの。
どんなにがんばって、早く水をすくっても、水面はどんどん上がってくる。
あせるばかり。そして、疲れるだけ。無力感。
元を締めなくてはいけないのだ。
元の蛇口を、せめて、ちょろちょろというスピードまで落とさないと、不妊去勢手術の効果はないのだ。
世の中のもっと多くの人が、もっと不妊去勢手術を自分のペットに行わないと、問題は一向に解決できない。

だから、シェルターを去ったその獣医師の気持ち、よくわかる、と私は言った。
ブルーの目をした彼女は、ちょっと優しい目をして、涼しい顔をして言った。
「そうね。ユウコの言うのは一理あるわ。でも不妊去勢手術は、いちおうアメリカでは定着してきていると思うの。」
「私が本当に耐えられなかったのは、もっと政治的な理由からなの」と彼女は言った。

ロサンゼルスでは、飼い主のいない動物が道をさまよっている場合、シェルターに保護される。約7日から14日間飼い主が現れるのを待ち、飼い主が現れなかったら、里親の募集となる。混んでいるシェルターの場合は、飼い主が現れかなったら、ほとんど即日安楽死となる場合もある。
まだ若くて、性格のよい犬、猫が、次から次と安楽死となる。
迷子犬猫が、負傷している場合はもっとひどい。
あまりにも負傷がひどい場合は、獣医師によって即安楽死。
少しだけ手当の必要な場合も、必要最低限の処置しかしない。飼い主が現れないで、来週安楽死となるかもしれない動物に、高額な医療費をかけることはできない。

ところが、飼い主のいる犬猫の場合は別である。
例えば、水や食餌を長時間与えられなくて、保護された犬猫。飼い主はどこかに長期の旅行に行っていることもある。酒やドラッグに溺れて、きちんとペットのケアをしていない場合もある。
この場合行政では、裁判官を通して、正式な手続きをして、飼い主に出頭するように申し立て、ひどい場合は動物虐待として飼い主を訴える。
しかし、どんなにひどい状態の子でも、裁判や話し合いが終わるまで、安楽死しないようにする。安楽死をしてしまうと、飼い主が逆上して行政を訴え、いろいろ面倒だからである。
それゆえ、シェルターには、飼い主と行政が裁判でもめている間、高齢の動物がゆうゆうと長居することがある。中には、腎臓病、心臓病、糖尿病など患っているシニア動物も多い。そういう「いちおうは飼い主がいる」動物たちが、高額な医療費を使いながらシェルターに居座り、逆に、ちょっと迷子になった若い野良犬、野良猫は、どんなに若くて、健康でも、かわいらしくても、比較的短期間に安楽死させられてしまう。

彼女は、そういうシェルターの制度の矛盾に耐えられなかった、と言った。

さて、日本の保健所や動物管理センターの場合はどうであろうか。
日本では、まだ里子に出すのを子犬、子猫だけに限る、といった制限を設けている市町村も多い。
また、飼い主から離れてしまった、迷子の救済はどうだろうか。
第三者が、傷付いた犬を発見した場合、どこに通報し、どこで適切な手当を受けるべきなのか。日本の保健所の制度はどうなっているのか。開業獣医師の善意に、頼りすぎていないだろうか。
良心的な通行人が、近くにある動物病院にその負傷犬を持ちこんだ場合、誰が治療費を払うのか。

日本もアメリカも、動物にとってベストな施設、制度を一つ一つ作り、そしてそれを常に改善していかなくてはならない。
医療が必要なのは、大切に飼われているペットだけではない。
迷子の犬、猫、野良猫の福祉を、私たちが、そして行政が取り上げてゆかなくてはならない。
なぜなら、動物は自分たちで立ち上がり、声をあげて「改善要求!」と叫ぶことができないのだから。
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