続・動物虐待


ロサンゼルスからこんにちは

 いよいよ本格的な夏が到来、といったところでしょうか。個人的には、私は夏が大好きです。ロサンゼルスはカラッと暑くて気持ちのよい日が続いています。いかがお過ごしでしょうか?

 先日、仕事でカナダのバンクーバーまで行ってきました。今回は日本の動物愛護関係の仕事で、バンクーバーの動物愛護病院や低料金で不妊去勢手術を行っている病院、各種のアニマルシェルター、ノーキルシェルター、他たくさんの施設を見学してきました。ロサンゼルスのような大都市とは違ったシステムが出来上がっており、またシェルターや獣医師の分業化もロサンゼルスとは微妙に違っており、とても勉強になった旅行でした。

 それにしても、日本も北米も、どこにいってもペットの数は有り余っている、という悲しい現実を、改めて再確認した旅でした。ペットが毎日、多量に殺処分されている、という事実は、知ろうとしないと見えない事実かもしれませんが、しかしそれは歴然とした事実です。この紛れもない事実を、少しでも改善しようと、実に多くの人ががんばっているのだ、という静かな感動も覚えました。

 「たった一匹でもいい。殺される運命の動物を救いたい」という願いを胸に、シェルターやノラ、捨て猫の保護をする動物レスキューの人たちは、それこそ汗だくになって東奔西走しています。そのような人たちのバイタリテイと努力とは反対に、「やっぱりうちの猫も、一度くらい赤ちゃんを産ませてあげるのも、いいかなって思って。」という人が絶えないのも、事実。

間接的虐待

 前回の直接的な虐待(殴る、蹴る、打つ、などの暴力が関与したタイプ)に続いて、今回は間接的な虐待について紹介する。

 アメリカの場合、動物虐待のケースの7割以上が、この間接的な虐待であると言われている。

 間接的な虐待には様々なタイプが含まる。長時間水や食餌を与えない、ヒモでつないだままにする、裏庭などに長時間放置する、暑さをしのぐ場所、寒さを避ける場所を与えない、散歩などに連れてゆかない、全く構ってあげない、といったような、「愛情を与えない、正しくケアしない」という行為が含まれる。また、病気になったり、怪我をした時に適切な医療手当を行わない、あるいは獣医師の治療を受けさせない(動物病院に連れてゆかない)場合や、明らかに異常行動が認められるのに(自分の尾を咬みちぎる、頻繁に吠える)、適切なトレーナーや獣医師と相談しない場合も間接的な虐待に相当する。

 きっとあなたにも、思い当たる犬、猫があると思う。近所の犬で、いつも短い鎖につながれて、一度たりとも散歩に連れて行ってもらった形跡がない。泥水のように濁った水がボールに少量見える。夏は炎天下でぐったりし、冬は毛布の一つも与えられずに丸くなっている犬。きちんとした食餌を与え、快適な飼育環境を提供し、病気になれば医療手当も施すというのが、飼い主としての最低限の義務。それを怠ると動物虐待となる。

間接虐待の難しさ

 ただし、間接虐待は、それが動物虐待であると証明するのが難しい場合が多い。それにはいくつかの理由があげられる。

 まず第一に、間接虐待は、長期に渡ってくり返し行われる傾向にある。個人の敷地内や、あるいは室内で密かに、長時間にわたって行われる。他人が短時間目撃しても、それが動物虐待であると証明するのが難しい場合が多い。

 食餌について、3日に1度しか与えなかったとする。それが個人の敷地内で行われるなら、他人が目撃して、「3日に1度しか与えていない」とすぐに分かるわけではない。犬がとてもガツガツしているとか、痩せている、ということから、食餌も満足に与えていない、という予想はできても、長期間、張り込み調査でもしない限り、他人にその事実はわからない。

 また、実際に、ほとんど食餌を与えていない、という事実を突き止めたとしても、それを証明するのが難しい。飼い主は、「いや、毎日与えている」とうそをつくかもしれない。本当に3日に1度しか与えていない、

ということを、他人が証明するのは難しい。

 食餌にしても、快適な環境にしても、その人の動物に対する概念、文化教養背景が大きく絡んでくる。例えば、雪の積もる北国で、犬をずっと屋外で飼うのは、虐待に相当するだろうか。「犬だって人間と同じ。氷点下の屋外に住むのではなく、暖かい室内で寝かせてあげるべき」と思う人がいれば、「犬はもともと野生時代から、寒さに強いとされている。犬は寒くなんかない」と信じる人もいるだろう。

 現代社会は、異なる文化背景や、異なる信念の人と共存していかなくてはならない。動物に対して、異なる考え方、信念のある人に対して、「あなたの犬は暑がっているではないか」と言っても、「いえいえ、この犬はいつもハアハア言っている。彼はこれが普通だ」と言うかもしれない。「寒がっているではないか」と言っても、「寒がっていない」と言い返される。すなわち、感覚の違う人と口論しても、水掛け論に終ってしまう。

 アメリカでは、動物虐待に対して関して、できるだけ具体的で、細かい法律が作られている。どのようなことが動物虐待であるか、という定義をきちんと設け、動物虐待に相当する行為をとても細かく条文にて詠っている。すなわち、水を12時間以上与えない場合は動物虐待、炎天下、日よけとなる小屋や木陰のない状態で、ヒモでつないでおくのは虐待、というふうに明確にしている。

 こういう細かい条文が存在することで、実際の動物虐待の現場では、虐待の摘発がしやすくなっているのである。日本のように、「動物を正しく飼いましょう」「動物に苦痛を与えないようにしましょう」というのでは、あまりにも抽象的すぎて、どこまでが正常で、どこから動物虐待なのか、非常に曖昧である。逆に、実際に動物虐待を摘発しようとしても、このような曖昧な条文の場合、誰が見ても明らかに動物虐待であるという状態まで待たないと、摘発できない、という悲劇が起こってしまうだろう。

 

 しかし、細かい条文のあるアメリカでも、やはり間接虐待はなかなか摘発できない。摘発したとしても、それが動物虐待に相当するか、どの程度酷い虐待であったか、ということを判定するために、裁判になることが多い。いくら動物虐待に関する法律が細かいとしても、現実に起こりうることを全て具体的に記載することはできない。動物が負傷したり、病気になった時、獣医師に見せずに治療を施さなかった、という場合は、それが虐待に相当すると証明するのが特に難しい。

 例えば、皮膚病の場合がある。不潔な環境で飼育し、飼い犬すべてが、カイセン症(ダニによって起こる非常に痒い皮膚病)に罹患したとする。カイセン症は治療をすれば治る。だが、飼い主は治療費をケチって動物病院には行かず、犬は気が狂ったように、全身を掻きむしっていたとする。これは動物虐待だろうか。証明するのは難しい。

 アメリカでも、間接的な動物虐待の時に、一番重用視されるのが、飼い主としての良識である。「かわいそう」という、単純明快な感情が、飼い主にあったかどうか、飼い主としての、責任感が感じられるかどうか。

 もう一つ、間接的な虐待の中には、飼い主が虐待をしているつもりが全くなくても、結果的に虐待になってしまうことが含まれる。ベジタリアン食がベストだと信じて、猫に野菜だけを与えて栄養失調にして、殺してしまったといケースがある。おやつを欲しがる犬に好きなだけトリートを与え、過度の肥満にし、結果的に犬は自力で歩くこともできなくなった、という虐待ケースもある。

 私たちは複雑で、とてもストレスの多い社会に生きている。仕事や学校のストレスから、ついペットに当たってしまう人もいるだろうし、他に誰も信じることができず、自分のペットだけを信じて、過保護にしてしまうこともあるだろう。過去の苦い経験から、獣医師不信に陥って、ペットがどんなに病弱していても、民間虜法で治そうとする人もいる。

 一生責任を持って飼おうと決心しても、この御時世である。思いがけず失業したり、離婚したり、人生設計が狂ってしまい、それがペットにも影響する場合も多い。思いがけず、うつ病になり、ペットの世話ができなくなった、ということもあるだろう。始めから分かっていれば誰も苦労しない。

 だが、そのような人間の心の弱さ、現代社会のきびしさの裏で、いつも犠牲になるのは、ペットたちであるように感じている。動物虐待が絶えない背景には、私たち人間の心の弱さ、現代社会の厳しさがあるからに違いない、と感じている。

ひとことアドバイス

 間接虐待と思われる行為を見つけたら、とりあえず飼い主に声をかけてみよう。案外本人は、全く虐待の意識がない場合が多い。他人に言われて、初めて、「ああ、そう思う人もいるのか」と気をつけ、少し改善するかもしれない。

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